星野仙一氏死去 がん闘病…「燃える男」「闘将」突然すぎる70歳

星野仙一氏死去 がん闘病…「燃える男」「闘将」突然すぎる70歳

記事要約:2018年、始まったばかりだが悲しいニュースを知らせることになった。星野監督が亡くなられた。管理人も突然の訃報に驚きを隠せない。ガンだったそうだが、俄の阪神ファンとして、野村監督が阪神の選手を育て、星野監督が優勝に導いた当時のことを思い出した。楽天の監督としても頑張っていた。

心からご冥福をお祈り申し上げます。野村監督の奥さんが昨年、亡くなったばかりで悲しんでいたわけだが、今度は星野監督か。怖いイメージは確かにあったが野球への情熱は人一倍だった。だから、この言葉が良く印象に残っている。「厳しさ7割、優しさ3割。これが本当の愛情なのだと思う」

自分で厳しいと思っていた。けれど、それは愛情だったのだ。

星野仙一氏死去 がん闘病…「燃える男」「闘将」突然すぎる70歳

楽天の星野仙一球団副会長が4日に亡くなったことが分かった。70歳だった。死因は明らかになっていない。現役時代は中日のエースとして活躍し、引退後は中日、阪神、楽天の監督を歴任。計4度のリーグ優勝を飾り、楽天時代の13年には自身初の日本一に輝いた。17年に野球殿堂入り。「燃える男」、「闘将」と呼ばれ、巨人を倒すために野球人生をささげてきた男がこの世を去った。

【写真】星野新監督を励ます会でのありし日の扶沙子さん

突然の訃報だった。星野氏が息をひきとったのは4日。球界関係者によると「がんで闘病していた」という。昨年末に体調が悪化し、年末年始を家族とハワイで過ごす予定だったが急きょ取りやめていた。昨年11月28日に東京で、12月1日には大阪で「野球殿堂入りを祝う会」に出席。2000人を超えるプロ、アマの球界関係者が集まり「これだけの人が来てくれて野球をやってて良かった。野球と恋愛して良かった。もっともっと恋したい」と失われない野球への情熱を口にした。しかし、これが、最後の晴れ舞台となった。

相手が強ければ強いほど、「燃える男」。現役時代のキャッチフレーズだった。その原動力が「打倒・巨人」。ドラフトでふられ、憧れの球団は「生涯のライバル」に変わった。中日のエースとして闘争心をむき出しにして投げ、巨人戦は歴代6位タイの35勝で通算146勝を挙げた。沢村賞を受賞した74年にはV10を阻止して優勝したが「日本シリーズは邪魔。俺は巨人を倒したからいいんだ」と言い切ったほど、巨人を倒すことに執念を燃やした。「強い巨人に勝ちたいんや」。その思いは引退後も変わることはなかった。

監督時代は「闘将」と呼ばれ、代名詞は鉄拳制裁だった。「非情と愛情の2つを併せ持つことが大事」という持論を持ち、闘う集団につくり上げた。中日で2度のリーグ優勝。97年には扶沙子夫人(享年51)を白血病で亡くしたが、グラウンドで戦い続けた。「俺は弱いチームを強くすることが好きなんだ。それが、男のロマンやないか」。反骨心の塊のような男。02年に低迷していた阪神の指揮を執り、翌03年に18年ぶりのリーグ優勝に導く。楽天監督時代の13年には日本シリーズで宿敵の巨人を破り、4度目の挑戦で初めて日本一監督となった。

14年にユニホームを脱ぎ、15年に球団副会長に就任。ONとともに球界への影響力は大きく、星野氏も「野球への恩返しの意味でも自分の思いや考えを若い人につないでいきたい」と語り、野球の普及活動に尽力していた。恋に恋した野球。しかし、楽しみにしていた20年東京五輪を前に帰らぬ人となった。あの笑顔はもう見れない。あの怒鳴り声ももう聞けない。

(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180105-00000146-spnannex-base)

 

星野仙一氏死去 がん闘病…「燃える男」「闘将」突然すぎる70歳」への2件のフィードバック

  1. 今頃は先に逝かれた奥様との再会を喜んでおられるかもしれない 阪神フアンとして心よりご冥福をお祈りします。

  2. ファイターズが北海道に来てくれるまで阪神ファンで、星野監督の大ファンでもありました。何年も低迷していた阪神を、「集まるときは走れ!声を出せ!」から始めて立て直してくれた星野監督。大震災があった楽天時代の、感動的なあれこれ。野球を誰よりも愛していて、熱くて優しいひとだったと思います。心からご冥福をお祈りします。

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