訃報 石原慎太郎氏が死去 89歳 東京都知事や運輸相など歴任

訃報 最初、ヤフーニュースから速報が来ても、嘘だろうとしか思わなかった。未だに本当に信じられない。でも、みのもんたさんと違って、スレが消されたりはしていない。つまり、確定なのだ。悲しすぎるだろう。

元東京都都知事の石原慎太郎氏が亡くなった。89歳。管理人は都知事時代の石原慎太郎氏か知らないが、それでも、彼が日本の国益のために尽力を尽くしてくれたことを知っている。本当、心からお悔やみを申し上げる。かなり、テンション下がっている。89歳だから、寿命といっても良いとは思うが、今年の冬は寒いからな。

一時代を築いた人がいなくなり、昭和や平成というものが終わりを告げている気がしてならない。令和が始まって、著名人の訃報ニュースが増えている。田村正和さんも、昨年になくなってしまったしな。

東京都知事や運輸大臣などを務め、芥川賞作家としても知られる石原慎太郎氏が、1日、亡くなりました。89歳でした。

石原慎太郎氏は、昭和7年に神戸市で生まれ、一橋大学在学中に小説『太陽の季節』で芥川賞を受賞しました。

「太陽族」という流行語も生まれ一躍、文壇の寵児(ちょうじ)となりました。

弟は俳優や歌手として活躍した昭和の大スター、石原裕次郎さん。

自民党幹事長を務めた伸晃氏と衆議院議員の宏高氏、俳優で気象予報士の良純氏の父親です。

石原氏は、執筆活動を続けながら昭和43年の参議院選挙で自民党から初当選し、4年後には衆議院議員に転身して通算9回の当選を果たしました。

歯に衣着せぬ発言で知られ、環境庁長官や運輸大臣などを務めたほか、自民党の派閥横断的な政策集団、「青嵐会」の主要メンバーとしても注目されました。

平成元年には、自民党総裁選挙に立候補し、敗れました。

平成7年に勤続25年の表彰を受けた直後に衆議院議員を辞職しました。

このころ『「NO」と言える日本』を共同で執筆し、日米関係に対する考え方を鮮明にしたほか、裕次郎さんの生涯をつづった『弟』などを出し、話題となりました。

その後、平成11年の東京都知事選挙に挑戦した石原氏。

「石原軍団」も参加する選挙戦を展開して初当選しました。

在任中、▽有害物質を出すディーゼル車の規制、▽「新銀行東京」の設立、▽大手銀行への外形標準課税の導入など、独自の政策を次々と打ち出したほか、▽東京マラソンの実現を主導し、オリンピック誘致にも取り組みました。

また、中国に対する強硬姿勢を貫き、沖縄県の尖閣諸島を都が購入する考えを表明するなど国の外交問題にも影響を与えました。

平成24年10月、4期目の任期途中、突然知事を辞職して新党を結成。

当時、大阪市長で日本維新の会を率いていた橋下徹氏と手を結び国政に復帰し、2年後に引退しました。

引退後も石原氏は、執筆や講演などを精力的に行いました。

かつて痛烈に批判していた田中角栄元総理大臣を評価し、その生涯を一人称で記した『天才』は平成28年のベストセラーになりました。

また、平成27年の春の叙勲では「旭日大綬章」を受章しました。

石原氏は、1日、亡くなりました。

89歳でした。

訃報 石原慎太郎氏が死去 89歳 東京都知事や運輸相など歴任」への5件のフィードバック

  1. 「我が国の重要な友人で、長きにわたり台湾を固く支持し、台日友好関係の深化に尽力された」と哀悼の意を示し、石原氏の功績をたたえた台湾外交部。
    台湾中央通信社や主要各紙(電子版)では「台湾の友人が亡くなった」と哀悼の意を示して報道。
    対して…
    「極右妄言製造機がタヒ亡」(韓国聯合ニュースの見出し)
    「石原氏は日本の保守右傾化を主導した張本人。韓国関連で妄言を繰り返した」(記事の主な内容です)
    民度の差が歴然としておりますね(-_-;)

  2. 石原氏の訃報、、やはりこの前のミノモンタと比べたら重さが違う。当然だが。

  3. 残念だ。左翼と戦った最初の著名人という印象がある。この人が居なければ未だに左翼メディアに疑問を持たない風潮が続いて居たかもしれない。間違いなく日本を救った偉人の一人。心からお悔やみを申し上げます。お疲れ様でした。どうか安らかに。日本は今後も左翼や中韓と戦い続けます。

  4. ROM専さんへ、、何故だかここでしか「投稿」のサインがつかなくて、この場で貴兄の疑問にお答えします。一円のギャラクシーだから仕方ないか?みーんな貧乏が悪いのだ?自分は昭和43年に自衛隊入隊で、新隊員教育隊ではM1ライフルでした。初めて撃ったときは肩付けが甘くてその反動で肩が痛くて暫く次が撃てませんでした。自分が配属されたのは今で言う野戦砲の部隊で、この時の銃はカービン銃(騎銃)でした。軽くて扱いやすくて良い銃でした。普通科、つまり歩兵部隊はその頃まだM1だったと思います。暫くして64式が出てきて、まずは北部方面隊に優先的支給で当時、平和な西部方面隊への支給は後になりました。やがてその銃が来て、撃ちましたが反動が少なくて威力もあり感心しました。(反動が少なければ銃もぶれないので良く当たります)アア、全学連鎮圧の訓練の時その時はカービン銃でしたから64はその後です。但し64は性能は良いのですが分解組立が複雑であり、この面はどうか?と思います。まあ他の国の自動小銃もそうなのか?銃の引き金を引くときゆっくりと引かず、急いで引くのを「がく引き」といい、嫌われます。銃の先端がぶれるので狙いが狂うのです。しかし射撃には時間制限があり、そうもいかない。実戦で動く相手には「がく引き」でないとゆっくりと引き金を引いている間に敵は居なくなります。そこでがく引でも当たるような工夫をしましたが、そこで自分は退官しました。昭和51年でした。後年予備自衛官の訓練では始め、久しぶりでの射撃の成績が芳しくなかったのですが、次の訓練では当たりいきなりAクラスを取りまして、射撃は訓練でなくセンスだと今でも思っています。

    1. 零戦様、ご返答有難うございます。そうですか、やはりM1ですか。あれはフルサイズのライフル弾で今のアサルトライフルとは一発あたりの装薬が段違い。さぞ強烈な反動があったかと思います。防人、有難うございます。零戦様のような方のおかげで平和に豊かに暮らせました。感謝しております。また、射撃はセンスとは知り合いの自衛隊の方は皆おっしゃいます。事実そうなのだろうと思います。まあ、残念ながら私は銃を撃てた事はありませんが。猟銃ですら厳しい規則がありますし。あ、ちなみに私も投稿出来ない事が多々あります。零戦様へのグッド評価もなぜか反応しない事多し。Iphone7なんて骨董品使っているからかもしれませんが、機種に関わらず発生するようです。

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